非日常の中の日常

連日新型コロナウイルスの情報にさらされる状況のなか、思うことはあるのだけどどのように発信すればいいかわからず過ごしていた。

とりあえず私自身の現状としては、もう半年以上行動範囲が自宅周辺のみなので、スーパーに行く回数を減らすとか、その程度の変化しかない。

とはいえ、通常の風邪にかかるだけで育児が崩壊しかねない我が家としては、何としても誰かが寝込んでしまうなんてことはあってはならないので、それなりに感染予防に気を遣っている。

自分の中では日本での感染者が明らかになりだした2月末ごろが危機感のピークで、それからはゆるやかに疲れが溜まってきているような感じである。

 

それでも比較的冷静でいられる(気がする)のは、夫があまりこの状況に動じていない様子だからかもしれない。

夫は毎日満員電車に乗って都心まで通勤しているし、職場でも色々な注意喚起はされているようなのでストレスが溜まっているに違いないのにあまりそういう風に見えないのは、私には不思議に感じる。
でもそれで少し助かっている部分もある。

というわけで我が家ではあまり新型コロナウイルスの話はしていない。
別にしてはいけないというルールはないし、無関心なのは良くないけど、適度に話題から離れることは必要だとは思う。

外に出ずにひとつの話題について考えすぎると、体調を崩してしまう気がする。

 

こういう状況なので、東日本大震災と福島第一原発の事故後のことを最近はよく思い出している。

当時私は愛知県にいて、直接自分の生活に影響する部分は特になかった(給料が減ったぐらいか?)。

けれど、私は放射線の影響についてかなり危機感を持っていて、その部分については他人事ではないと感じていた。

生鮮食品の生産地が関東のものは避けるようにしていたし、カップラーメンや缶詰の製造地を調べることまでしていた。

そんな自分が今東京に住んで子育てしているのだからなかなか滑稽な話だと思う。

 

当時の私の行動が意味のあるものだったのかは、今でもよくわからない。

こうした行為を不快に思う人もいるだろう。

正しく怖がることは大切で、知識がない状態では、人々の恐怖心は差別につながる行動を起こしかねない。

それは理解できる。

でも「正しく」とはなんだろうか?
正しい知識はどこで得られるのだろうか?

政府や専門家が発表することを信じるのも、それに疑問を持ち多方面のソースから情報を得るのも、色々あっていいと思う。

未知のことが起きている状況では、自分が正しいと思うことを自分で決めなければならない。

もしかしたら、それによって終わる人間関係もあるかもしれない。とても孤独だし、とても疲れる。

 

今起きていることは震災とは全く異なるけど、人々は同じように疲れていくだろうなと思う。

しかも、今回は世界じゅうのどこにいても脅威がすぐそばにあるような事態で、日本ではまだそんな感覚はなくても、間違いなくすでに非日常の中にいる。

暗い状況が続けば何気ないものも敵に見えてしまうかもしれないけど、それで消耗していては気持ちが持たない。

頭の中も早いうちに非常事態モードにして、自分にとって必要なものが何か問い直して、今しかないかもしれない日常を大切に過ごすことが大事なのではないかと思う。